瀬戸内町は、奄美大島南部、加計呂麻島、請島、与路島という四つの島に点在する、大小56の集落(当地では「シマ」と呼称)から成る自治体です。本冊子は、過去に本町が発刊した「文化財をたずねて」の一部に英訳を付した縮刷版です。英文と日本文の解説文章については、それぞれに求められていると思われる情報内容の違いから、厳密には一致していない点はご了承ください。主に指定文化財を中心にまとめてありますが、土地に育まれてきた歴史・文化・自然の総称を「文化財」と捉える観点から、紙面のゆるす限りその他事項もピックアップしました。簡易な冊子ではありますが、瀬戸内歩きのお供に役立てば幸いです。

奄美大島南部と加計呂麻島、請島、与路島から成る瀬戸内町。この町名は、昭和31年に古仁屋町(こにやちょう)、西方村(にしかたそん)、実久村(さねくそん)、鎮西村(ちんぜいそん)の合併によって誕生した。合併前まで、この「瀬戸内」なる呼称は、宇検村の一帯も含めて「瀬戸内五カ村」とも用いていたことから、すんなりと反対意見なく決定したという。
では、この「瀬戸内」という言葉、いったいどんな来歴を持っているのか。おそらく日本では、中国地方と四国のあいだにある「瀬戸内海」を思い浮かべ、それにあやかった名前ではないかと思っている方も多いことだろう。交錯する島影、波穏やかな海…、その風景が似ているわけであることから無理もない。
実は、この一帯を「瀬戸内」という言い方は古くからあった。加計呂麻島の須子茂に伝わっていた1595年(奄美諸島が琉球王国の支配下にあった頃)の古文書には、「せんとうち」という地名呼称が平仮名書きで見えている。
「瀬戸内」という呼称は、日本の「瀬戸内海」を真似て創られた地名ではない。もしかすると、波おだやかな海をさした言葉として、かつての日本、琉球では、「せとうち」、「せんとうち」なる言葉を使っていたのかも知れない。
「瀬戸内町」、それは古くて新しい名前である。

奄美大島の国道58号を南下して突き当たるところが、瀬戸内町の中心市街地・古仁屋(こにや)である。この街の成り立ちについて紹介しよう。現在、瀬戸内町のなかでも古仁屋は飛びぬけて人口が多く、総人口のほぼ半数を占めている。しかし、明治時代初頭まではそうでもなかった。江戸期から東間切渡連方の方役所が設置されていたが、明治3年段階の記録では、古仁屋の総人口は339人、これは当時トップの与路720人、阿木名693人、諸鈍607人から数えて14番目の位置でしかなかった。
それが明治時代の終わり頃になると、古仁屋は1,308人となり、諸鈍1,202人、阿木名1,186人とほぼ並んだ規模にまで増えていく。これは官庁、学校、事業所、商店に従事する人たちの流入者が増加したことによると目される。
大正初期には、鹿児島などからの、いわゆる寄留商人によって商店街が形成されていた。また、大島南部の政治・経済の中心地、また各集落を船舶で結ぶ交通の中心地である港町であったところへ、大正9年、下関要塞司令部奄美大島築城本部が設置され、消費性の高い街となっていった。以後、古仁屋は人口が突出していくことになる。昭和15年の段階には、2位の諸鈍1,023人、3位の与路1,050人を大きく離し、古仁屋は4,732人となっていた。

一転して戦後、人口減少が進む。その理由には、昭和28年に日本復帰して本土との往来が自由になったこと、町村合併の時期が重なったことなど、複合的な理由が考えられる。
昭和33年には、古仁屋の街がほぼ全焼するという大火に見舞われた。これは戦後の鹿児島県域で起こった最大の火事である。幸い、死者は出なかった。
今、ここにある古仁屋は、戦争、大火という二度の焼土を乗り越えて復興してきた街なのである。

ヤドリ浜は、古仁屋から東へ車でおよそ20分あまりのところにある、地元ではよく知られた海水浴場。この「ヤドリ」という島の方言を、わかりやすく漢字になおせば「宿り・屋取り」といったところで、「一時的な仮小屋」という意味がある。
平地が少ない奄美大島一帯では、主産物のサトウキビをはじめ、イモなどを植えるために、村から離れたわずかな平地や、山中の平地も利用していた。場所によっては、村との行き来がたいへんであったため、しばらく滞在できるように小屋を作り、収穫や製糖の時期にそこにこもって仕事をしていた。ヤドリ浜の一帯は村から離れていることから、この地名は、かつて「ヤドリ」があったことに由来するとみられる。
現在、ヤドリ浜にはホテルが建っているが、かつて、この辺りの平地一帯には池のような湿地帯があった。今ではだいぶ埋め立てられているが、その最も深かった場所が、一部に面影を残している。戦後しばらくは、湿地山手の平地にはサトウキビ、浜側の砂地ではスイカや落花生が作られていた。また、ホテルの下の海辺では、昭和30年頃まで塩炊き小屋があった。このヤドリ浜がある半島部一帯を皆津崎(かいつざき)と呼んでいる。この一帯は、大正9年に陸軍がやってきたときに軍事施設構築のために没収されたという(元々どこの村の所有であったかは未調査であるが)。大戦が終結すると地元民への払い下げが行われたが、当時の蘇刈の村には購買資金が乏しかったために、ヤドリ浜付近の山手のみを買うことになり、結局残りは他村の人の所有になっていったという。
ヤドリ浜から海を眺めると、右手には離れ小島がある。そこは地元では「ヒンジャバナ(山羊鼻)」と呼んでいる。干潮時になると、山羊が群れで渡っていたという。また、満潮になると、瀬と陸地側の間を「イタツケ」という島の伝統的な小船で抜け渡ることができたという。

ホノホシ海岸は、ちょうど奄美大島の東の端、岬のように飛び出た皆津崎のくびれた根元に位置する、瀬戸内町を代表する観光スポットである。大小の丸石で敷きつめられた珍しい海岸で、太平洋から打ち寄せる荒波によって、自然石がいつも「カラカラッ、コロコロッ」と、音を立てている。かつて、舟で行き来することが多かった頃、天気の悪いときなど、ここから舟を担いで陸上を横断していた。多少難儀ではあっても、外洋の岬を周回する危険を冒すよりはよかったという。この「舟越し」が、「ホノホシ」という言葉の語源である。漁に詳しい方の話では、この一帯の潮の流れは、激しくはないといっても満干時の規則性がなく、とにかく潮が回っている場所だという。
ホノホシ海岸には、真ん中の大きな岩を境にして浜が二つある。その真ん中の大岩を地元の方言では「クラディ」と呼び、右手の浜の先を「ウフチブリ」、左側の方を「ウラノコシ」という。このうち「クラディ」の頂付近には、大正時代に無政府主義運動の中心的存在であった大杉栄の碑が何者かによって建てられて大騒動になったことがあった。
大島海峡側の方の地名は「ウラソコ(浦底)」。元々は海であったが、大正時代に軍が道路整備をしてから池となり、そこを利用して現在は、クルマエビの養殖業が営まれている。この「ホノホシ」系の地名を持つ海岸は、奄美大島では宇検村宇検、龍郷町手広がある。いずれの場所も、くびれている陸地で、かつて舟を担いで渡った場所である点で共通している。

高知山は展望台がある、瀬戸内町一帯を一望できる絶景地。「こうちやま」の名前の由来は不明だが、元々、奄美大島の各所に山の地名としてみられる「タカバチヤマ」という呼び名であったものが漢字表記されるとともに、それが音読みされたことに由来するのではないかという説がある(義高之氏談)。第二次大戦末期、戦局が悪化していったことで、それまで古仁屋に置かれていた防備の中心は、陸軍は徳之島へ、海軍は喜界島に、それぞれ滑走路を建設するために移っていく。そうしたなか、古仁屋の基地は、高知山の山手付近に移転していった。その具体的な場所についてまだ未調査であるが、およそ現在の展望台のある広場近辺ではなかったかとみられている。

加計呂麻島の諸鈍の海岸沿いには、樹齢300年といわれるデイゴの巨木の並木がある。5月中旬から6月初旬にかけて鮮やかな真紅の花を咲かせる。諸鈍の伝承では、いつの時代か、沖縄からやってくる交易目的のマーラン船が、赤く咲くデイゴの花を目印にしてやってきたのだという。2008年、デイゴに被害を与えるデイゴヒメコバチの寄生が確認され、その保護対策が急務となっている。