瀬戸内町立図書館・郷土館
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文化財の紹介(町指定文化財)

指定文化財

西家の由来と家系

 記録には残っていないが、西家について次の言い伝えがある。初代西家の能悦は、加世田のお城勤めの頃に家老の娘と恋仲になった。このことが発覚して打ち首になるところだったが減刑され、島流しになったという。その後十八世紀の後半、五代目能悦の頃に、薩川から伊子茂に移住。五代目能悦は郷士格を得て、この家系で初めて西性を名乗った人物である。西家は代々、与人(藩政時代、島出身者が就くことができた最高位の役職)などの役人や戸長をつとめた家柄で、瀬戸内町一帯で力を持っていた。良港であった伊子茂湾を拠点として、琉球との交易を深めていたようで、西家には多くの文化財が残されていた。西家の繁栄を偲ばせるそれらの品々の多くは、昭和の戦争でなくなってしまった。それでも屏風、種子島銃、陣笠、風炉、化粧箱、敷物、ノロの祭祀具、錫製酒器などの文化財が残され、現在重要資料として町立郷土館に保管されている。

書院造りの主屋

 今でも伊子茂集落には、西家の屋敷の跡が残っている。この主屋は書院造りの建物で、町指定有形文化財に指定されている。伝承では、藩政時代も終わりに近づいた天保7年に八代目の西能永通が、薩摩の宮大工を招いて作らせたそうだ。なお、この大工達の手による家屋は、他に現・宇検村の鎮家、現・大和村の和家があったという。西家の建材は、内柱はイジュ、外柱はヒトツバの良材を、大島本島内の勝浦集落の山から厳選して使用。鏡板には屋久島の杉が使われた。完成までにはおよそ3年の歳月を要したという。西家の正面入り口の石垣は、城郭でも用いられる亀甲乱れ積みと呼ばれる大変丈夫な積み方である。石の自然な形を利用しながら、すき間なくぴったり合わさるように削って組み上げられている。

絵画

屏風絵(六画)

屏風画(伊子茂・西家) 伊子茂の西家に残されていた屏風絵である。お盆に仏前に立てられていた6つ折の屏風で、色彩豊かに唐絵が描かれている。下張りには、明治20(1891)年から県本土で発行されていた「鹿児島毎日新聞」が使われている。これは奄美に現存する、最古の新聞である。

龍樋(りゅうひ)

龍樋 加計呂麻島、瀬武集落の武家に残されていた品物である。『連官史』によると、武家は寛政5年(1793年)に朝恵喜が西間切黍見回り役となったのをはじめとして、西間切筆子や間切横目等を代々勤め、文政9年(1826年)には郷士格を得ている裕福な家である。この龍樋は凝灰石で出来ており、薩摩から運びこまれたものとみられている。全高は124cm、瑞雲を駆け昇る龍の姿が見事に彫られている。後方にうがたれた穴から水を引き上げ、上部の龍の口から水が流れる仕組みになっている。中央を貫く水路は円形。また3体に分離することができ、接合面は四角形の凹凸ではめ込み式になっている。鎌首をもたげた龍の頭部は欠損して、下あごが残るのみである。

工芸品

漢方医薬器具

漢方医療具(薬箪笥) 加計呂麻島、俵集落の柳家に残されていたものである。藩政末期、柳儀志定が藩の漢方医塾で漢方医としての学問を修めた後に持ち帰ったのではないかと考えられている。この薬箪笥には123個の引出しがあり、大きさは縦83p、横79.5cm、幅18.5p、引出しは6.7cm×6.2cmで、材質は杉(厚さ1mm)である。

シャム南蛮壷

シャム南蛮壷 15世紀から16世紀にかけて、シャム(現在のタイ)から持ってこられたものだと思われる。素焼部は濃い赤土色で、耳は4つある。口縁部直径19.5cm 、高さは60.4cm、最大胴幅44cm。

西家に残る資料群

 加計呂麻島、伊子茂集落の西家に、数多くの文化財が残されていた。現在、町立郷土館で重要資料として保管されている。
香炉 酒瓶(錫製) 陣笠 中央卓
食器一式(ウフビリャー) 酒瓶(陶芸品) 敷物 柱掛
種子島銃 書類箱
ノロの祭具 丸櫃

古文書

検地帳(琉球大嶋西間切瀬武村御検地帳)

 この検地帳は、加計呂麻島、瀬武集落の武家より瀬戸内町立郷土館に寄贈された古文書群の中から見つかった。年号は表紙に残された痕跡から、享保13年と見られる。藩政時代に測量された土地について記されており、同集落内の田畑の畦反数や石高、土地の所有者などが見える。本町内で現在確認されている唯一の検地帳。寸法縦26.7cm×横20cm

須子茂・池田家の須子茂文書

ネタチ宛得分規定辞令書2通 加計呂麻島、須子茂集落出身で岡山県に住んでいた故・池田為良氏が、家宝として保管していた資料群。池田家は、須子茂のノロ祭祀組織のグジ役を代々つとめていた家柄で、古文書とともに、十手一点、ドギン(胴衣)一点、水晶玉一点を平成8年に瀬戸内町郷土館に寄贈した。全8枚の古文書の中の辞令書には、朱色の首里王印鑑が押されている。薩摩藩の侵略がはじまった1609年以前は、奄美は琉球王国には含まれていたことを示している。

有形民俗文化財

嘉入のノロ祭祀具

 嘉入のノロ祭祀は、グジ役が亡くなった昭和61年に集落常会の結果、終焉をむかえた。その後、祭祀組織の中でイガミを務めると共に、ワキノロの役も務められていた故・加藤ウマチが、所蔵していた祭祀具を後世まで残るよう願いをこめて中央公民館に寄贈した。

ガラス玉

ガラス玉 一点は、首飾りの状態を保っており保存状態がよい。もう一点はいくつかの輪が一箇所で留められており、この形が原形であったのかは不明である。

シーシ玉

シーシ玉 植物素材(乾燥した種)をつなぎ合わせた首飾りである。実際に祭祀に使用されていたのかは不明だが、寄贈された祭祀具一式の中に含まれていた。

ミガキ(神扇)

ミガキの表裏の写真(嘉入) 太陽を中心に描いた面には、鳳凰が描かれている。その裏の月を中心に描いた面には、牡丹が描かれている。地色である黄色がやや紫外線によって変色している。握手に三角形の布切片がついていたと見られるが、欠損。幅88cm、縦53cm

鉦(網野子) 網野子では、ノロ祭祀具の鉦は、「キンノビンダレ」とよばれてきた。その所在を知るものは誰もいなかったが、昭和35年頃、偶然、遊んでいた子どもたちによって発見された。(〈大〉直径283mm、〈小〉直径213mm)

神衣

神衣(嘉入/芭蕉製) いずれも保存状態は良好である。木綿のもの、絹製のものに加え、残る一点は素材の判別がしがたいが、やわらかい上質芭蕉かと思われる。芭蕉製 袖口60cm, 肩幅127cm、身丈130cm、絹製 袖口56.5cm、肩幅142cm、身丈125cm、木綿製 袖口58cm、肩幅117cm、身丈120cm。

無形民俗文化財

アンドンデー

アンドンデー(網野子) 伊須湾に面する網野子集落に伝わる民族芸能であり、女性のみで踊られる。昔は踊りの型、服装に決まりがなく即興で踊られ、先導の行灯(アンドン)は本物が使用されていたと言われている。現在は主に豊年祭で披露される。アンドンデーの由来は、かつて網野子に住んでいた役人の家に玉女加那が生まれたときに、数人の使用人が行灯を持って即興で踊ったのが始まりだという。また、その娘の病気がなおった快気祝いに踊られたとも伝わっている。昭和53年12月15日に町指定無形民俗文化財に指定された。

記念物

垣漁跡

垣漁跡(木慈) 垣漁とは、満潮時に石垣内に入った魚たちが干潮になって逃げ遅れたところを網などで捕えるという素朴な漁法のことである。奄美大島の垣漁は、波穏やかな海岸線を持つ本町をはじめとして、笠利町や龍郷町の湾岸で行われていた。奄美大島北部では垣の所有形態が私有的であるのに対し、瀬戸内一帯では集落で共有されていたようである。漁の際に使用した網(サデ網)についても同様だ。戦後もしばらくはこの漁法が行われており、キビナゴの群が漁垣内に入ると素早く中央の出入り口を網でふさぎ、垣内のキビナゴを捕っていた。大小の竹カゴや網ですくい取る方法はもちろん、両足をV字型に伸ばして座り、そのまま前方に進みながら、足に触れる魚を素早く掴み取る方法もあった。現在では、木慈集落と押角集落に2ヶ所に半壊した石積みが残るだけである。