瀬戸内町立図書館・郷土館
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文化財の紹介(伝説・歴史・戦跡)

伝説

実久三次郎

実久三次郎神社 1156年の保元の乱で敗れ、伊豆大島に流された鎮西八郎為朝が、伊豆付近から琉球列島に渡った形跡が伝説として島伝いに残っている。為朝が琉球へ渡る途中、加計呂麻島の実久に立ち寄った際、地元の娘との間に生まれた子どもが実久三次郎である。現在も実久には、実久三次郎を祀った「実久三次郎神社」があり、境内には三次郎とその母の墓がある。三次郎は怪力の持ち主で、ある時宇検村に住んでいた名柄八丸という豪傑と力比べをしたそうな。まず、三次郎が八丸の住む名柄めがけて200s近い大きな石を投げつけた。大きな石は海山を越えて飛んでいったが、名柄に届かず久慈の近くの伊目に落ちた。八丸も負けじと、その岩を足で蹴り返したという。三次郎が握った指の跡がついた石と、踏ん張ったときの足跡は今も境内に残っている。また三次郎は、実久から対岸の西古見まで、大きな櫂(ユホ)のたったひとかきで漕ぎ渡ったことから、大櫂加奈志(ウフユフガナシ)とも呼ばれている。

嘉徳のアハウシャンムィ

アハウシャンムィが埋められたという場所(写真中央の小高い場所) 嘉徳の集落には、昔、「アハウシャンムィ」という怪牛がいたと伝わる。その怪牛は8本の角と8本の尻尾を持ち、150メートルほどある長い鼻を伸ばして人を巻き殺し、ひとたび腹がふくれると微動だにせず一週間眠り続けたという。長い鼻ということから牛ではなく象であった、あるいは鼻ではなく長い舌だったという説もある。那覇の首里からきた王族の兄弟がアハウシャンムィを退治し、村の北東にある洞窟に住んだという。今はふさがっているその洞窟には、金の煙管と金の杖があったという。また、退治したアハウシャンムィは、大きな縦穴を掘って埋められ、その周りに金の杭を建てたのだとも伝えられている。

諸鈍の戦い

キシミチ 加計呂麻島の諸鈍の村に、美しいノロがいた。ノロとは当時、村の繁栄と豊穣を神に祈る役職で、一生に一度は琉球王のもとに拝謁に行かなければならなかったという。諸鈍の美しいノロは、その習慣に従って琉球に船で向かった。拝謁に参上した美しいノロを見た按司(アジ:王の側近)は、強烈な恋心を抱いた。その強い求婚に観念したノロは、留守を守っているスィドゥ(ノロの次席)へ「民をよく治めよ」と伝言して琉球王府に残った。ところが、村の統治に強い権力を持っていた上位のノロが帰らないとわかると、留守をあずかったスィドゥのナングモリバラ(難具母里原)は横暴を極め始めた。定め以上の米を農民から奪い、他の地域から琉球に向かう船を襲撃するなどの海賊行為にまでおよんだ。
 こうしてナングモリバラの一族は、岸道(キシミチ)という地区に7つの倉を建てて権勢を強めていった。そこへ、同じ岸道の豪族であったグリャバラ(具良原)という一族がこれを快く思わず、村民の惨状とナングモリバラの横暴を琉球王に訴えでた。
ファームテの遠景(定期船「せとなみ」航路海上より撮影) 訴えにより琉球王は船団を組んで兵を送り、グリャバラと組んで討伐をはじめた。挟撃されたナングモリバラ軍は、村のサト(里)と呼ばれる地区の近くに退却して応戦した。激しい戦いの末、王の軍勢はナングモリバラ軍を追い込んだ。不利になったナングモリバラ軍は巧妙に退却して難攻不落の要塞に立てこもった。
 ナングモリバラ軍が最後に逃げ込んだファーテムという地は、周囲を絶壁、山、川に囲まれた天然の要塞で、さすがの琉球軍も攻めあぐんだ。ついに本隊は一部の駐屯軍を残し、琉球に引き上げた。その間にナングモリバラは勢力を盛り返し、戦前と同様に7つの倉を建てて戦力を蓄えた。グリャバラの再度の訴えに再び琉球軍は兵を出したが、普通の手段では攻められなかった。四月のノロの祭りの日、司祭を務めていたナングモリバラは、密かに要塞に侵入していた敵兵に暗殺された。諸鈍にはナングモリバラの屋敷跡、琉球軍の駐屯地跡と言い伝えられている場所がある。

ムチャカナ

ムチャカナ神社 藩政時代、代官や役人の力が絶大であった頃の話である。代官はその絶大な権力を笠に、村一番の美人を「島トゥジ(愛人)」とするならわしがあった。島一番の美人とたたえられたウラトミは、代官から島トゥジになるよう求められたが、かたくなに拒絶して首を縦に振らなかった。激怒した代官は、ウラトミの親族だけではなく生間地区全体に重税を課し、苛酷きわまりないあらゆる圧迫を加えた。
 ウラトミの両親は、娘かわいさと世間への申し訳なさの狭間に立たされ、やむなく泣きわめく娘を生きながら葬ることにして小舟に乗せて流した。舟は、波と風に身を任せ、数日後に喜界島の小野津の村に流れ着いた。村人に助けられたウラトミは村の男と夫婦になり、子宝に恵まれ幸福な日々を送った。だが、悲劇はウラトミにつきまとった。ウラトミの娘ムチャカナは母にも勝る美人で、男たちの関心を独占した。女たちのねたみを受けたムチャカナは、策謀により激流に突き落とされ、16歳の儚い命を終えた。これを聞いた母ウラトミは、自らも娘の後を追って入水自殺し、悲劇に包まれた運命の幕を閉じた。

カンツメ

カンツメの碑 現在の宇検村名柄と瀬戸内町久慈を舞台とした悲しい伝説がある。藩政下時代、名柄に裕福な豪農の家があった。そこにはヤンチュ(家人:借金返済の代わりに身売りした人)と呼ばれる人々がおり、その中にカンツメという名の従順で美しい娘がいた。年は18、19の頃。カンツメは、ヤンチュ仲間からはもちろん、屋敷の主人からも想いを寄せられていた。
 ある日隣村の久慈の役所で筆子役として働いていた岩太郎という青年が、名柄の豪農であるその家を訪れた。屋敷の主人は岩太郎をもてなすために、カンツメに引き合わせた。夜も更けるにつれ二人の呼吸は冴えるばかりで、カンツメは身分も忘れて一夜を過ごした。その後二人は愛し合うようになり、両村の間の山で人目を忍び密会を繰り返すが、ほどなくして、二人の仲はカンツメの主人にばれてしまう。かねてからカンツメに想いをかけ、その度に拒まれ続けていた主人は激怒し、ある晩夜露に濡れて帰ってきたカンツメをその場に引き倒し、焼火箸で彼女を折檻した。
 見るも無惨な姿になってしまったカンツメは、その日も山での重労働に追われ、仕事が終わると仲間と別れ、一人で岩太郎と忍び会った場所に走った。何も知らない岩太郎は、沈んだ表情のカンツメを迎え、いつものように楽しい一夜を過ごした。やがて山鳥が朝を告げようとする頃、カンツメは「あかす夜は暮れて、わきゃ夜は明ける 果報節のあらばまた見逢いそ(冥界の夜は暮れて貴方の夜は明けます。よい時節が来ればまた会いましょう)」と歌って姿を消した。我に返った岩太郎が目にしたのは、カンツメの変わり果てた姿であった。カンツメの霊は、その後多くのたたりを主家にもたらし、名柄の豪農の家は衰え消え去った。
 厳しい労働に加えて、主人の嫉妬と暴力、ささやかな恋の想いをとげられぬヤンチュの立場。恨みをのんで死を選ぶしかなかった、カンツメの悲しい物語。宇検村名柄と瀬戸内町久慈の間にある小高い山の頂には、カンツメの碑が老人クラブによって建てられている。

歴史

摩文主一族の墓群

摩文主一族の墓群 諸鈍のナングモリ征伐に琉球王が派遣した軍の副将であるといわれている摩文主が、加計呂麻の渡連集落の「グスコ」と呼ばれる高台に住んでいたと伝えられている。摩文主一族の墓群は、渡連の海岸近くにある。年号が記された墓としては町内で最も古く、元禄六年(1693年)、宝永元年(1704年)と刻まれている。
 墓群の近くの「ハサマ」と呼ぶ小高い丘の頂には、「トラハンド」と呼ばれる大きなカメと銘のない五輪塔の墓が一基ある。この墓と摩文主との因果関係は不明だが、現在も同じ人によって管理されている。摩文主本人の墓は、上記の元禄年号の記されたものだという説と、かつて「ハサマ」の麓にあったが現在は壊れてしまったという、二つの説がある。ここには隣の安脚場集落の墓地もあったといわれ、この一帯全体をさして「ウフダッチョ」と呼んでいる。

篠川の芝家

芝家の墓地 「大奄美史」によると、琉球建国王の孫である義本は、引退後沖永良部島の畦布に住み、按司として島を治めた。義本の次男継好は阿麻弥大主となって瀬戸内町に渡り、篠川に拠点を置いた。これが芝家の元祖である。
 その継好から22代目にあたる好徳(1714年生まれ)は、長兄が他家の婿養子となったため、次男だったが家を継ぐことになった。
 彼は44歳のときに、木曽川工事に出費のかさんだ薩摩藩に、5千斤もの砂糖を献上している。ついで4年後に3万斤。安永6年からの3年間に7万斤、子どもの名前で3万5千斤。65歳で引退し、古志に退いてからも6万斤を献上。好徳はこの功によって代々郷士格を得て、名字も芝姓を名乗ることを許された。薩摩藩の圧政におびえていたこの時代に、藩より一つの「格」を与えられたことは、とても大きな意味があった。
 更に薩摩藩の江戸屋敷が焼けたと聞くと10万斤。没年を迎えた寛政7年(1795)までに、さらに9万3千斤を献上。このときは約束に6千斤足りず、子が代納までしている。まさに献上糖のための一生であり、生涯献上糖は40万斤にもおよぶ。薩摩藩の強大な権力の裏に、それを支えつづけた奄美の砂糖の存在と、芝家・好徳の献身がある。
 好徳は奄美で初めて毛織物を織り、大銃を鋳造した人物でもある。安永元年(1772)敬姫誕生のお祝いに鹿児島へ渡った彼は、羊毛の織り方を習得して帰った。島の技術は不明だが、新たに織り機を製造して織らせ、そのうちの3反は藩に献納している。また1771年、伊須湾に漂着したオランダ船に対し、奄美で絶対的権力を握ってきた薩摩藩がなすすべもなかった事実を目の当たりにし、「島は自分たちで守るしかない」という思いを固めたのだろう。その後6年をかけて大銃二丁を鋳造した。
 好徳は82歳の長寿を保ち、寛政7年(1795)に亡くなった。今でも篠川小中学校の裏手に荒れ果てた芝家の本家跡があり、村はずれの深まった一角には代々の墓群がある。龍郷町の田畑家と並ぶほどの旧跡だけに、歳月を重ねて主も定かでない碑石は、無言のうちにも歴史の重みを語りかけてくる。

瀬武の武家

武家の屋敷石垣 武家は寛政5(1793)年に一族の朝恵喜が西間切黍見回役になったのをはじめとして、その後代々役職につき、文政9(1826)年には郷士格を得ている加計呂麻の一族である。現在も瀬武集落の山手に、福木の防風林と石垣に囲まれた、書院造りの武家の屋敷が残っている。武家の墓群は集落民のものとは別にまとまっており、墓碑年号は文政11(1828)年・弘化2(1845)年・安政2(1855)年となっている。
 武家が所蔵していた古文書群には「琉球大嶋西間切瀬武村御検地帳」をはじめ、「津口横目辞令書」「竹木横目辞令書」「砂糖積船文書」「砂糖出入帳」「本払帳」など、貴重な資料がたくさんある。明治期の「座禅法」「論語」「三体千字文」「国史略」などの資料もあり、ほかにも加計呂麻の歴史を知る重要な品々が数多く遺されていた。文献が少なく伝聞による伝承を主とする瀬戸内町の歴史を知る上で、欠かせない資料の宝庫である。

諸鈍の林家と積家

林家屋敷跡の石垣 藩政末期には、多くの農民が年貢を納めきれず、豪農の家に借りては納めを繰り返し、ついには返しきれぬ借入の代わりに自らの身を売り渡した。こういった債務奴隷的な「農奴」をヤンチュ(家人)と呼んだ。
 加計呂麻の諸鈍の林家が有名なのは、特にそのヤンチュ(家人)の数においてである。
 屋家業一番な
 ま東や前織衆
 うりが二番な
 ま住佐応恕衆
 大和浜三能安衆
奄美でヤンチュの多い家を歌った俗謡でも、渡連方諸鈍の林前織は1番に挙げられている。
 林前織は文化11年(1814)に竹木横目という公職について以来、田地与人・東方与人・住用与人を勤め上げた。文政11年(1828)に東間切は台風による不作で、豪農に身売りする人が激増した。林前織は米270石をこれらの難民の救済に当て、それに対する薩摩藩からの褒美は、サラシ布10疋であった。
 諸鈍のサトという地区には、林家と並ぶ名家として知られている積家があった。その家の積福悦も、これらの身売り人のための「請返料」として、米200石と砂糖3万斤あまりを献上したという。林家と積家は同じ集落内で財力も均衡していたライバル関係にあったといえる。前織が宇検方に勤務していた時代、不行届で役を解かれた際に、その後任に選ばれたのが積家の福悦であったという。このように、公職の上では積家に取って代わられた感があるが、林家も財力の上では抜群の蓄えを誇っていた。
 林家が抱えていたヤンチュは実に300人を超え、築山のある庭と書院には、書籍・刀剣・鉄砲類などの貴重な品々が蓄えられ、訪れた藩の役人も驚いたという。琉球築城法を用いたといわれる林家の跡地には、現在屋敷周りの石垣が残っているだけである。

清 当済

 当済は延享4年(1747年)に清水に生まれた。南大島を代表する篠川の芝家の出だが、外祖父の養子になり清水の清家を継いだ。青年期からすでに、薩摩にも名が知れわたるほどの大物で、数多くの書物をあさり、武道・軍学・妖術にも長けた人物であったという。
 島役人には珍しくスケールの大きい人物で、60歳になってから万年丸を建造して、無人島探索を行ったという。流人・田中猪之衛を参謀に「新世界発見」に乗り出したのだ。一行は台風で沖縄に流されたが、途中で大東島・南大東島(明治以降日本の領土となる)を探索している。その後島が大凶作にみまわれた際、飢饉の惨状を目の当たりにした当済は、藩の蔵の米を島民に与えた。当済の死を賭しての行動は、藩に逆らったと見なされ役を解かれ、住用村で不遇のうちに亡くなった。没年文化13(1816)年10月で71歳であった。

伊須の浜辺

伊須集落の遠景 阿木名から海沿いに南東へ向かうと伊須集落に行き着く。波静かな伊須湾はサンゴの発達が少なく、3月3日の干潮時には湾内を歩くことができる。車社会の現代では、立ち寄る人も少ない小さな集落であるが、船での交易が盛んだった薩摩藩下の伊須湾は、西古見・花天・久慈・知之浦・深浦・伊子茂・油井・古仁屋・諸鈍と並び、多くの船が入港される重要な港の一つであった。
 「大島代官記」にはこの伊須湾にまつわるある事件が記されている。明治8年(1771年)6月に、オランダ船が伊須の浜辺に漂着したのだ。上陸した多数の乗組員たちは神山の木を切り、中田原という近くの浜に木綿張りの小屋を2ヶ所建てた。神山を荒らしたとして村人は震撼したが、言葉も通じずジェスチャーによる退去要求には発砲で応える異国人になすすべもなく、集落の人々は方々へ逃げ出した。早飛脚で知らせを受けた薩摩藩の代官付役らが、武士団と島役人に非常収集をかけ石火矢を集めて対峙したが、近代武装を誇る相手に勝てるはずもなかった。絶対権力を誇る薩摩藩を恐れ、圧制を強いられてきた島民がこのとき目にしたのは、あまりに弱々しい武士の姿であった。幸い大きな争いは起こらず、補給を終えたオランダ人は7月1日に伊須から出航していったという。

文仁演くずれ

 加計呂麻の渡連は、かつて東間切渡連方と呼ばれる地域の中心地であった。ここの与人であった文仁演という人物が薩摩藩に出した直訴状が、奄美全島の島役人を巻き込む大騒動に発展し、代官・島役人の島流し・投獄を招いた事件があった。この「文仁演崩れ」と呼ばれる事件は、単なる関係者の処罰にとどまらず、慣例的に受け継がれてきた島役人の任命権が、完全に薩摩藩に握られることとなる結果を招いた。奄美に対する薩摩藩の圧政は、この事件から始まったといっても過言ではない。
 事の発端は個人的な米の貸し借りだった。渡連方与人の文仁演は、親類の佐富・佐喜美・稲里から米を大量に借りた。「代官記」によると元利1千石の超高金利であり、返済期に都合がつかず矢のような催促を受けた。藩は「年利三割以下を守れ」と命じているにもかかわらず、年に倍などの高利貸しが横行していたのである。佐富ら3人は、代官北郷伝太夫に米30石・金子30両と島トジ(妾)を賄賂として贈り、金利の確保を願い出た。悪徳代官・伝太夫は文仁演に「渡連方の蔵にある薩摩藩の米を横流しして金利を払え」と命じた。藩への上納時に不足米がでることを案じて、命令を拒否した文仁演に対し佐富ら3人は「不足分がでたら肩代わりで上納してやるから。」と持ちかけた。一度は代官の命令を断った文仁演も「上納米に不足がでたらまた借りる」という約束の上で、しぶしぶ横流しを承諾した。
 ところが上納期になると、予期したとおり不足米がでて上納できない。そしてなんと、取り分をとった佐富らは約束をくつがえし、不足米を出そうとしなかった。「代官記」によると「最前ノ約束トハ大キ相違・・・米一升モ相貸サズ」と書かれている。文仁演は、まさに見殺しにされたのである。
 上納不足がでたと知るや、「蔵米の横流し」を指示した張本人の悪代官・伝太夫は、文仁演に対し血も涙もない仕打ちをする。文仁演本人はおろか、その弟の文仁志(横目)文仁覇(筆子)の家財まで差し押さえにかかったのである。記録には「はぎ取った」と表現されるほど、強権をかさにきた、すさましい略奪だったに違いない。差し押さえた家財道具は赤木名に運び、半額で佐富ら3人に売り、上納の不足分を埋めた。心配した文仁演の一族は、彼らの老母のために米を出し合い世話をする下女10人をつけたのだが、伝太夫はこの下女たちをも取り上げ、人身売買の末に米にかえた。更に文仁演兄弟の役職は取り上げられ、その与人役は佐富とともに画策した稲里の子に与えられた。
 単なる個人の貸し借りに、代官が乗り出したゆえに騒ぎは大きくなり、渡連方に栄えた一族は没落し、老母の面倒すらみられなくなった。しかも噂は島中に広がり、文仁演一族は笑いものとなった。意を決した文仁演は、自分をおとしめた佐富、伝太夫らとの「抱き合い心中」の覚悟を決めた。
 とっておきの紗の反物に、事の発端からの全てを記し、本国の薩摩藩へと訴え出たのである。この海を越えての上訴により、島全体の役人全員が呼び出され、そのうちの多くが投獄されるという、更なる大事件へと発展していったのである。

久慈の白糖工場跡

白糖工場で使用されていたレンガ(伊目にて撮影) 寛政13年(1801年)、薩摩藩は四国の讃岐から教師を招き、白糖製造を試みた。これが奄美における白糖製造の始まりであったといわれている。その2年後に白糖上納令が出て、奄美大島、徳之島、喜界島で計20000斤を貢納させた。ところが農民の疲労困ぱいがひどく、成果も思わしくなかったので、後に製造を廃止した。
 その後薩摩藩は、藩主島津久光公の代(1865年)になって、イギリスのオーストロスとマキンタイラーの両技師を招き、外国製の機械4組を購入して再び白糖製造を始めた。久慈の精糖工場の機械はオランダ製で、他3箇所のものはイギリス製であった。それは当時、黒糖の値段が下がったことの打開策であった。工場は現在の瀬戸内町久慈をはじめ、奄美市名瀬の金久、宇検村須古、龍郷町瀬留の4箇所に建てられ、藩士7名・英語通訳1名・医師1名・人夫120名ほどが来島し、3年かかって建築を終え、操業を開始した。久慈の精糖工場の跡地は、現在は藪地・みかん畑となっている。

節子のトミ

トミが使用していたと伝わる三味線の木枠(上)。下は参考までに完形の三味線。 文久年間に生まれたトミについて、節子や勝浦では「派手な人で、馬に打ち乗った姿は例えようもなく美しかった」と言われている。長身で細面の彼女は、鮮やかな鞍をかけて、よく馬にまたがった。黒髪をなびかせながら無人の白浜を行く姿は、男たちの目を引いた。加えて七色の声を持つという美声に三味線の名手でもあり、また、恋多き女でもあった。
 美人で男勝りで自由奔放に生き抜いたトミは、瀬戸内町だけでなく名瀬までもその名が知れわたっていた。
 トミは阿木名に嫁ぐが幸運は続かずに離婚し、節子に戻り自由気ままな生活に戻った。その後再婚して勝浦に嫁いだ時には、相手が無類の鉄砲撃ちであったため、彼女も山に入り猪をしとめ、その度に近所の人を招いて祝宴をしたという。
 同時代の人々から「節子のトミ」と呼ばれた女傑の墓は、勝浦に残っている。墓碑には没年69歳、昭和8年旧2月19日「富過」と刻まれている。

カツオ漁業と朝虎松

朝虎松の碑。集落公民館の裏にある。 西古見は、大島海峡の西入口に位置する集落である。ここは明治中期以降より奄美におけるカツオ漁業の先駆地であった。そのカツオ漁業の創始者であった朝虎松は、明治二年(1869年)西古見で生まれ、育った。青年の虎松は佐多町から出漁してきたカツオ船にのり、わずかの期間に大量のカツオを水揚げするのをみて、この商売をひらめいた。集落民を説得し、32歳の時に奄美大島で初めてのカツオ漁業組合を西古見に作ったのだ。勤勉な虎松は技術の習得に熱心であったため、このカツオ漁業は当たりに当たり、宇検・瀬戸内一帯に広まった。わずか3年ほどで虎松のカツオ漁業組合の船は、なんと130隻にも達したという。大正時代には更に拡大し、集落内にカツオ節製造場が立ち並び、船の修理場や氷の貯蔵庫まで作られ、西古見は世帯数370戸にまで達した。鹿児島・沖縄はもちろん、神戸・大阪からも商人や出稼ぎが押し寄せ、大変なにぎわいを見せたという。しかし当時の運営資金のほとんどは、借入金によるものであったため、好況は長くは続かなかった。虎松の業績と人柄をしのんで、大正3年(1914年)に西古見の高台に記念碑が建てられた。彼に厚い信頼をおいた、大島水産組合員一同の手によるものである。カツオ漁業で一世を風靡した虎松は、大正11年(1922年)に亡くなった。

旧奉安殿

 奉安殿とは、戦前の日本において天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた各学校の建物のことである。祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼と教育勅語の奉読が行われ、また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼をするように定められていた。
 日本が第二次世界大戦で敗れた年、GHQの指令のため奉安殿は廃止され、多くの奉安殿が解体された。
 しかし本町では以下の6つの奉安殿が解体を免れ、倉庫などとして使われてきた。そして平成18年8月3日「登録有形文化財」となり、取り壊しや外観を大きく変えるような改築は禁じられている。
古仁屋小学校旧奉安殿須子茂小学校旧奉安殿池地小中学校旧奉安殿
薩川小学校旧奉安殿節子小中学校奉安殿旧木慈小学校奉安殿

戦跡

戦争と瀬戸内

弾薬庫跡(安脚場) 瀬戸内町域のリアス式海岸に挟まれた大島海峡は、明治中頃から日本軍の要所として注目されていた。日本が米英に宣戦布告し、太平洋戦争がはじまった昭和16年には、瀬相に大島根拠地隊が編成される。さらに翌年には大島防備隊がおかれ、南西諸島海軍の拠点になった。海軍設営隊は三浦におかれ、海軍航空隊の基地は須手におかれ、南西諸島の輸送船団の護衛にあたった。アメリカ軍の沖縄上陸戦開始以降は、艦船攻撃のためにここから20回出撃した。
 現在の県立古仁屋高校の敷地には奄美大島要塞司令部(大正11年に設置)、古仁屋中学校の敷地に奄美大島陸軍病院、前古仁屋郵便局の敷地には古仁屋憲兵分遺隊がおかれていた。
 また、死を覚悟した人間が、魚雷をのせた船ごと敵艦に突撃する「特攻隊」(震洋艇)は、昭和19年以来、三浦(第17震洋隊・林部隊)、呑之浦(第18震洋隊・島尾部隊)、久慈(第44震洋隊・渡辺部隊)に配置されていた。
防備衛所跡(安脚場) 大戦中に米軍の上空からの機銃掃射などで、瀬戸内町域で死者32名、全焼した民家は2209戸にのぼった。特に、高射砲台・機銃砲台によって米軍の航空隊を迎え撃った陣地近くの集越智は前章被害が大きかった。与路・池地・秋徳・徳浜・佐知克・西阿室・瀬相・芝・実久・節子・久根津・古仁屋の集落は、ほぼ全焼したという。
 瀬戸内町のほとんどの集落やその山中、海岸には陣地がおかれていて、防空壕・迎撃基地・弾薬庫・格納庫・兵舎・機銃陣地などがあった。現在、手安・安脚場の戦跡は見学しやすいように整備されている。

第18震洋隊震洋艇格納壕跡(呑之浦)大島防備隊戦闘指揮所跡(瀬相)
弾薬庫跡(手安)観測所跡(西古見)